
鎌倉時代初期、栄西禅師が宋から持ち帰った茶の種子を明恵上人が栂尾深瀬に播き育てた後、茶の普及の為に宇治に移植したことに始まります。室町時代には、足利義満が宇治茶の栽培を奨励し、室町幕府の御用茶園「宇治七名園」を開かせた頃には、栂尾にかわって宇治が茶の本場となります。織田信長、豊臣秀吉の時代も、宇治茶は保護されました。
江戸時代に入ると朝廷や幕府への献上が続き、三代将軍 徳川家光は朝廷献上茶と将軍家直用の高級茶を作らせ、江戸までの新茶の運搬を「お茶壺道中」として制度化し、以来250年間続けられます。宇治の茶師たちは、この「お茶壺道中」の中核的な担い手として携わり、日本茶文化を長く支え続けました。
1738年 宇治田原の永谷宗圓により新しい製茶法、蒸した茶の新芽を焙炉の上で揉み乾燥させる、画期的な「宇治製法(青製煎茶法)」が生み出されました。これが現在の日本茶(煎茶)の始まりです。
1835年には宇治小倉の茶師木下吉左衛門が偶然に生み出したといわれる玉露。玉露はのちに宇治の辻利右衛門によって完成されました。
日本最古の生産地としての伝統と、宇治川がもたらす川霧・豊かな土壌、自然条件、製茶技術の高さで、生産量は多くはないですが、上質な茶を生産し日本の代表的産地となっています。